行き詰まった人生、その後…

my職業isひきこもり

学校に行きたくない

僕は、何かをすることに苦を感じてしまう…。

何かをすることが嫌嫌に感じてしまう…。

 

何故、そうなってしまうのかずっと考えていたが、それは子供の時、親や周囲にある言葉を言えなかったということに気付いた。

 

それは、‘学校に行きたくない’、という言葉だった。

 

ただ、当時はそんな気持ちがある、学校に行かないという選択肢がある、とは夢にも思わなかった。

 

僕にとって学校は、どんなに嫌でも、どんなにいじめられても、どんなに傷ついても、どんなに苦しくても、絶対に行かねばならない場所だと思っていた。

 

文字通り‘義務’だと思っていた。

 

それが原点にあり、そこから嫌なことでもやらなくてはならない、という歪んだ考え方をするようになったんだと思う。

 

それが今では、何か仕事をしなくてはならない。でも出来ないし、何か嫌だ。

何か社会参加しなくてはならない。でも出来ないし、何か嫌だ。

というような気持ちで揺れていた。

悩み苦しんでいた。

 

でも、人は自分に正直であるべきだと思う。

 

心して、そう思うならそうすべきだと思う。

 

仕事も社会参加もしたくないと、心して思うならば、する必要はないと思う。

 

実際、僕にはそれらを出来る能力はないと思う。

 

無理してまで、社会の普通に合わせる必要はない。

 

僕は、高校まで卒業し、大学を中退したが、その学歴等が役に立ったことはない。

 

その後、少しアルバイト経験があるが、本格的な就労経験はない。

 

高校を卒業し30年近く経つが、それでも今日まで生きてこれている。

 

僕のような人生を送っていれば立ち行かなくなる人の方が多いのかもしれないが、人生は人それぞれ違うし、人生は仕組まれている。

 

自分に正直に生きて行けばなんとかなると思う。

 

やってみたいと心して感じたことだけやってみればいい、と思う。

 

自分に正直で在れ!

 

 

 

自覚

 

自閉症スペクトラム障害だとはっきりと自覚した。

 

1年くらい前に病院の先生から僕はこの障害があると診断されたのだが、最近になってはっきりと自覚した。

 

自覚したきっかけはよくわからないが、子供の頃から今に至るまで上手く生きられなかったのは、この障害があったからだと悟れた。

 

普通の人なら、パッと見ればわかることがわからなかったり、

普通の人と感じ方が違うらしく、気持ちの交流ができなかったり、

人の気持ちになって考えることができなかったり、

手先が不器用だったり、

運動神経が鈍かったり、

こういうのは全て、自閉症スペクトラム障害の症状だったようだ、

と自覚した。

 

僕は何とかしてこれらを直そう治そうとしてきたが、脳の構造上の障害であり、恐らくは治らないらしい。

 

僕は今まで、何もチャレンジ出来ない、する気になれないのは、逃げがあるからだと自分を責める傾向があった。

 

だが、出来なかったのは、する気になれなかったのは、潜在意識では、能力的に無理だと分かっていたからだったんだと今では思う。

 

僕は今年で46だ。

でもこれが36だったとしても、26だったとしても、16だったとしても、変わらないと思う。

 

しかし、自分の人生詰んでいるのか、というと、そうは思わない。

 

では、自分の人生はどうなればいいのか、というと、

定職に就くとか、普通の人っぽくなる、ということでもないし、

成功して、大金持ちになる、という突飛なことでもない。

 

それは、自分の心が救われること。

それには、自分らしく在れるようになること。

それを、今の環境で成すということ。

 

でも、それがどういう感覚なのかが、わからない。

どうすればそうなれるかが、わからない。

 

自閉症スペクトラム障害の人とは、ある意味偏り過ぎている人だということができる。

僕も、偏っていたから、そういう脳をした身体に生まれてきたんだとも思う。

 

拘り過ぎず、今の環境、状況を受け入れて、広い心で在れるようになればいいと思う。

そういう反省が必要だと思う。

 

とにかく今は、精神的に疲労困憊している。

焦らず、追い詰めず、しばらく考えることから休もうか。

 

 

 

 

障害と向き合う

前にも述べたが僕には精神的な障害がある。

それはものすごい重度ではなく比較的軽度で、一見他人から見ても自分から見ても判りにくい。

だが、確かにあるようだ。

その影響で思うように生きられない…

外で働いたりすることもできない…

何もできない…

だから僕は何とかこの障害を治そうとしてきた。

過去に遡ってあの時どうしてればよかったとか考えたり、

今ここで精神的革命を起こそうとしたり…

しかし、無理だった。

でも結局この障害を治そうとしたのは‘普通の人に見られなければならない’という脅迫観念があったからだったと気づいた。

こういう時はこういう風にしなければならない、というような考え方をしていた。

障害をなかったことにしようとしていた。

それが間違いだった。

僕はこの障害と向き合わなければならない。

障害者であることを受け入れて生きていかなければならない。

そう悟った。

その上で、残りの人生をどう生きるか考えて行こうと思う。

 

本当にやりたいこと

本当にやりたいことが見つからない。

それは、考えれば考えるほど、探せば探すほど、見つかることに近づけると思っていた。

だが、それば違うようだ。

今出来ること、すべきことを淡々粛々とやっていれば、いつの日か向こうからやって来るものらしい。

大切なのは、見つけることに執着しないこと。

見つけようと執着すればするほどかえって遠のいて、泥沼に嵌って苦しむことになる。

それでも、死ぬ時後悔しないために…と言う人もいるかもしれないが、それはすべきことがわかっているのにしなかったり、良くないと思っていながらそれをしたり、他の人の心を省みず傷つけたり、、、

というようなことをした場合だろう。

考えてもわからなかったことをしなくても後悔はしない。

それでも自分が浅はかだったら後悔するかもしれないが、考え込んでいる時点で浅はかではない。

死ぬ時後悔しないために何かをやり遂げたい、というのも執着だと思う。

死ぬ時あの世に持っていけるものはなにもない。

人に称賛されたとしても、それも自己満足に過ぎない。

ただ、自分が生前したことに対しては責任を取らされるらしい。

 

何を言っているのかわからなくなってしまったが、やりたいことが見つからなくても大丈夫。

目の前のことを淡々粛々とやっていればいつの日か向こうからやって来る。

やって来なかったとしても、それはそれで大丈夫。

気に病むことはない。

軽く見つけたいという気を持ちつつも、執着しない。

人とも比較しない。

我が道を行く。

気楽に気長に。

自分のペースで。

それが大事だ。

 

 

 

 

もう迷わない

 

人生の目標目的をこれまで探してきた。

自分の生きる意味を探してきた。

しかし見つからなかった。

だが、それらは無理して見つけるものではない。

探して見つかるものではない。

 

何か決意が必要だ。

‘普通の人’になることを目指すことを完全に諦める、ということ。

これがまだまだ根深く残っていたのかもしれない。

変でもいい。

駄目でもいい。

無能でもいい。

そんな自分を肯定する。

中途半端に何か出来るより、その方が自分らしいような気がする。

もう迷わない。

 

 

自分に蓋をしない

僕は心のどこかで自分の気持ちや行動することを殺して何かにならなければならない、としていた。

自分に蓋をして精神的革命でも起こそうとしていたのかもしれない。

だから苦しかった。

だが、それが間違いだと気づいた。

自分に蓋なんかしなくていい。

そう考えると気持ちが少し楽になった。

 

社会的に成功していたり、人生上手く行っていたりしないと心は救われないとでも、思っていたのか…

救われる為に何かにならなければならず、その為には何か心に蓋のようなものをして精進しなければならないとでも、思っていたのか…

そんなことはない。

今ここ、この状態で救われてもいい。

無条件で救われていい。

救われる為に、救われること以外のことを一切考えないで、一日でも早く救われようとしていた。

その結果、心に蓋をして苦しいおもいをして停滞していた。

 

自分に蓋をしない。

自分の気持ちを生かしていい。

今ここ、この状態で救われよう。

救われる時は永遠に今しかない。

 

 

 

 

普通の人にならない

 

僕は、特別な人になりたいと思っていた。

その一方、普通の人を満たしていなければはならないと思っていた。

その為に、普通の人が出来ることが出来なくてはと考え、普通の人が知っていることは知っていなくてはと考えていた。

それにはまず、今のこの病気や障害やらを治さねばならないと考えていた。

何かきっかけがあれば一瞬で治ると思っていた。

何かきっかけがあれば何でも出来るようになれるとも思っていた。

でも、実際に何かをする勇気をどうしても奮えなかった。

何故か、やる気になれなかった。

それで、執着的に内省反省瞑想的なことをとにかく毎日してきた。

それをして自分を直そうとして、治ったら何かをしようと考えていたのだろう。

勇気を奮えないから努力することに逃げ込んでいたのかもしれない。

そういう日々を25年くらい続けてきた。

そして最近になって、おそらくは治らないと悟った。

勇気を奮って何かにチャレンジして失敗していれば、もっと早くこのことに気付けたのかもしれなかった。

そう考えると痛恨だが僕の人格形成上、何かをしようとするとそれをしなければならない、という状態になってしまうから、心の底ではそういうことをしたくなかったのだと思う。

僕には普通の人になる能力もなければ、

普通の人になりたいとも思ってもなく、

普通の人になる必要もないと気づいた。

ただ、自分らしく在ればいい。

だか、その自分らしい、というものがわからない。

本当に自分らしく生きたことがないからだ。

無理に考えると、本当の自分ではない何かになろうとしてしまう。

とりあえず、無理に内省反省瞑想等をして直そうとしたり、何かになろうとするのをやめようと思う。

特別な人にも普通の人にもならなくていい。目指さなくていい。

自分は、何も出来ない駄目駄目人間だということを受け入れよう。

今は何もしない。出来ない。

今はそれでいい。

今はそれが自分らしい。

そのままでいい。

何者にもならなくていい。